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私は石川啄木先生に喧嘩を売っていたのだろうか。

06:12


紅葉。

それは見目麗しき木々の旋律。
新緑の季節に腕を広げ、精一杯太陽の光を浴び続けた木の葉が織りなす、最後の美。
その紅や黄金に彩られし様に、我々は唯々感嘆の吐息を漏らすばかりである。

紅葉は、美しい。
徐々に色づいてゆく、その過程に生まれるグラデーション。
全てが色づいた後の、その圧倒的な色の一体感。
それらに光が当たるときに見せる、神々しいまでの色の変化。
一陣の風を受け落ち行く時でさえ、はらはらと可憐な姿を見せ、
落ちて尚、素晴らしい色彩の絨毯を辺り一面に広がらせる。
その挙動全てにおいて、紅葉は美しい。

では、何故紅葉は美しくなれたのであろうか。
葉を散らせた風の所為?
ただひたすら照らし続けた日の光の所為?
そうではない。
木の葉が木の葉らしく生まれ、散りゆくことが出来たのは、土のお陰である。
何故ならば、土から栄養が吸収されなければ、葉は紅葉に行き着くことなく、
唯々枯れ葉となり虚しく散ることになるからである。
幹がただひたすら土から送られる栄養素を葉に送り続けたからこそ、
葉は最後まで紅葉という美を飾り、その生命を全うできたのだ。

色づいた葉は散り、土に還る。
土に還り栄養素となり、また次の木の葉を色づかせる。
そうした紅葉の『次の意志』こそが、木々をまた色づかせる。
そのサイクルがあるからこそ、我々はこの季節に紅葉を楽しむことが出来る。

色とりどりの木の葉は、見るものを圧倒するほど優美なものである。
だがしかし、そこに目を奪われたままでいるのはよろしくない。
土があり、木々があり、葉があり、その一連のものもの全てを見つめることこそ、
紅葉という美を愛でる為に必要な行為なのではないだろうか。
貴方がそのことを忘れ、
土の下の意志を蔑ろにしたまま唯々頭上で色づく葉を愛でるのならば、
何れ木の根に躓いて転げてしまうかもしれない。

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